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女子大生のスマートフォンに、必ず入っているアプリがわかりますか?――絶対使うものを再考する

 女子大生のスマートフォンに必ず入っているアプリって何、って女子大生に聞いたら「乗換案内」と言われた。

 確かに、必ず使うよなあ、と思う。大学生とか遊んでばっかだから、外出する機会も多いだろうし、起動している回数も他の人種(セグメントとは言いません)より多いだろうしね。

 というわけで、こんな乗換案内があったらいいなってものを考えてみました。

 

あったらいいな その1 終電アラートを出してくれる

 これは知らないだけで普通にありそう。

 昔docomoiコンシェルがこんなことやってた気がして、かなり便利だったのを覚えている。位置情報を取得して、終電の時間の30分ぐらい前にプッシュ通知で教えてくれたら便利だよね。

 終電を逃す時にありがちなのが、

 終電の時間はわかってるけど駅までの所要時間がわかってないってことだったり、終電の時間を知りたいけど、携帯をじっくり見れる状況じゃないってことが大きい。

 なので終電通知きたらめっちゃ便利。しかも自分で設定せずアプリが勝手にやってくれたらなおさら便利。

 

あったらいいな その2 アリバイ通知

 女子大生とかに便利そうだなと思ったのが、終電の三十分前ぐらいに「明日早いんだから家に帰って寝なさい」ってプッシュ通知を送ってくれる機能

 終電逃させてお持ち帰りしようとするウェイから身を守るための対策や、もうつまらないから早抜けしたいなって思う飲み会、上司にフィリピンパブに連れて行かれそうになった時に便利ではないでしょうか。

「明日早いから」って口で言っても逆効果の時も結構あって、そういう時は他人からも言われてるっていう体で訴えかけるという寸法です。

 まあ一番の対策はめんどくさいやつが来そうなところに行かないということですね。

 

あったらいいな その3 裏乗り換え案内

 待ち合わせの予定時刻に遅れそうだったり、すっごく急いでる時、乗り換え案内で調べると明らかに間に合わない電車しか出てきませんよね。

 でもそんな時、乗り換えの時に本気ダッシュしたり、途中駅で降りて平行して走る電車に乗り換えたり、途中で降りて快速や私鉄に乗り換えたり、途中からタクシーを使ったりすると時間に間に合ったりすることがあります。稀にですが、予定時刻よりも早く着いちゃったりもしますね。

 そういった西村京太郎トラベルミステリーも真っ青な『裏乗換案内』を作って欲しい。

 料金はすごい高くなる上に10秒でも遅れれば乗り換えに失敗する可能性もあるけど、設定した時刻には間に合う。

 そんな乗換案内、意外と需要あると思うんだよなあ。少なくともぼくは使います。

 

ぼくはいらないけどあったら受けそう編 かわいい乗換案内

 乗換案内は見た目が可愛くないので同じ中身でもインターフェイスをちょっとかわいくするだけでウケそうだなって思ったりします。女性向けみたいな感じにして、女性向けの広告とか出したらいいんじゃないですか?よくわからないけど。

 

必ず入っているアプリは、他にも結構ある

 あたりまえだけど、女子大生のスマートフォンに必ず入っていそうなアプリは他にもある。LINEとかカメラアプリとか、メモ帳とか生理日予測とか。

 そういうものではなく、コレは除外するだろって思うような乗換案内アプリみたいなものでも、見方を変えるだけでまだまだ進化しそうだなと思いました。

 

 

 裏乗換案内はマジで作ってくれ。頼む。終わり。

昨日テレビで見たお笑い芸人のマネをして笑いをとっていた奴は大人になる前に死ね、大人になったなら早く死ね――何度も言うけど価値のある物を作って欲しいということ

  小島よしおは面白い。

 思春期の頃、ぼくは小島よしおが結構好きだった。あの動きも面白いと思ったし、なんか笑ってしまう。「でもそんなの関係ねえ」っていうパンチラインも、頭から離れない。あの表情や佇まいに、なぜかワクワクした。

 見ててワクワクしない? 小島よしお。

 

 でも、学校で小島よしおのマネをして笑いをとっている奴が大っ嫌いだった。心底憎かった。てか、なんで真似するの?って感じだった。

 それで笑いが起きているのが許せなかった。それを面白いと思ってやっているその根性に一切共感ができなかった。真似をする人、それで笑う人、その空気、全てが嫌だった。

 

 かと言ってオタク丸出しだったわけじゃない。ネットスラングやMADのネタを大声で話して笑ってる奴らも「本当に気持ち悪いし早く死ねよだからおめえらはオタクなんだよ死ね」って思っていたし、そもそも何度も語っている(気がするが)そういった、踏み絵のような行為をしてまで、どこかに属していたいという願望を持つ人間ではなかった。

 

 ぼくはNAVERまとめとかに代表するようなキュレーションメディアが嫌いだ。

 誰かが一生懸命作ったコンテンツの、要点だけを抽出して一つの記事にする。確かに綺麗にまとまってたりするけど、人のブログの記事をそのままパクってきたり、ツイートを丸写ししたり。最悪にも程がある。

 

 学校でお笑い芸人のものまねをするムカつく奴にそっくりだ。はっきり言うけど、死んじゃえばいいって思う。消費してる奴はともかく、作ってる奴は本気で死んじゃえって感じ。つまらなくても自分で作らない奴はクソ。

 NAVERまとめも自分で工夫して作っている人も居て、そういう人の記事は面白いし、勉強になる。キュレーションメディアが他人のコンテンツを抜き出すようなものだけじゃないんだ、ってことがよく分かる。本来なら、そっちのほうが多くなければいけないのにね。

 

 

 かつて、自分だけが面白いと思っているんだろうな、と思っているものがいくつかあった。深夜ラジオだったり、ブログだったり小説だったり。

 これはきっと、他の人にはたいして面白く無いんだろうなあと思うようなもの。思春期のぼくにとって、それらが宝物だった。他の人にとっては気持ち悪いものであっても、ぼくにとってはかけがえのない宝物だった。みんなが面白いと思う物を嫌いなのに好きになるなんて嫌だった。

 そんなものの何がいいの、と言われた時は、苦笑いしながらも、内心、自分の中の価値観にまで踏み込んでくるなと怒鳴りたくなった。度胸がないから言わないわけだけど。皆さんにはそんなことを思った経験はありませんか?

 

 誰かにとって、価値があるものは、他の誰かにとってどうでもいいものであってほしいとぼくは願う。

 ぼくは車とかバイクには全然興味が無いけど、そういうものに興味がある人が、いるべきだと思う。いてくれて、なんか嬉しいとも思う。

 自分にとって価値のあるものを自分で見つけて、新しい価値のあるものを生み出す世界であってほしい。誰かにとって価値があるものを、人の財産から抜き出すような人が少しでも少なくなるような世界であって欲しい。終わり。

お米があっても、たまねぎと牛肉が無ければ、お前は「すき家」に行く――ダメ人間のための自炊を考える

 ぼくはだらしがない。

 一人暮らしの部屋は汚いし、財布の中はレシートだらけ。待ち合わせにはよく遅れてくるし、人に「ちゃんとして!」と怒られる回数も多い。(最近知ったことなのですが、「ちゃんとして」って怒られることってあんまりないらしいですね)

 

 それでも、自炊だけはわりかしちゃんと続いている。駅前のイオンで買い物をして、その日食べたいものを作って食べる。自炊最高とかそういうことがいいたいわけじゃない。最寄り駅はわりかし美味しいお店も多いし、よく外食にも行く。日高屋すき家もしばしば使う。牛丼にとろろをかけて食うのは最高だ。こんな話をしているから、今日の夜もすき家に寄って帰る可能性だってある。

 

 一人暮らしをはじめてから数ヶ月経過して、考えたことがある。

 

 それは自炊について。

 

 この国では、自炊原理主義アンチ自炊派の二つの宗派に分かれて争っている、とぼくは考えている。  

 

 自炊原理主義者はとにかく自炊でなければ気が済まないというように、何でも自炊ですまそうとする。時にはそれ、買って食ったほうが安上がりじゃね?と思うようなものも自炊し、写真をインターネットにアップロードする。

 

 彼らの主張は一貫している。

 

「自炊すれば節約できるし、健康管理もできる」

 

(=だから私達は偉いし、自炊しない奴はクソ)

 

 ある種の強迫観念すら感じるような主張を、彼らは繰り返し唱え続ける。

 まあそれが間違っているか間違っていないか、という話についてはぼくはどうでもいいと思っているんだけど、彼らがアンチ自炊派を見下しているのは、ぼくにもなんとなくわかる。

 

 そして、アンチ自炊派は自分たちが見下されていることに気がついていて、そのイライラのせいで、触るものみんなに牙を剥いている。

 世の中の自炊派には「料理が好きだよ派」や「ガチで貧乏だから激安食材を調理して飢えを凌ぐしかないよ派」などの少数民族もいる。

 だが、自炊原理主義者たちの態度に腸を煮えくり返らせているアンチ自炊派は、この少数民族たちもひとくくりにして批判する。

 

「疲れている時に料理をする奴はバカ」

「ガス代とかも含めて考えたら逆にコスパ悪い」

「多少割高でも好きなモノ食って生きていくほうが心が豊かになる」

 

 など、彼らは、あー確かにぼくもそう思うな、と一理あるなと思わせる強い主張をする。そりゃ、自炊するより、外食したり弁当食って生きてくほうがいいよな、って思えるような。

 だが、彼らのアンチ自炊派の家には調理器具や食材がないというわけでないのだ。

 

 

 

 自炊をする、自炊をしないという二つの選択肢のどちらが正しいか、という問題はさておき、ぼくはこう考えるのが一番コストパフォーマンスがいいんじゃないかな、と思う。

 例えば家にいて、お腹すいた~ってなったぼくが牛丼が食べたいと思ったとして、お米が炊けてても、たまねぎと牛肉が無ければ、ぼくはイオンじゃなくてすき家に行くだろう。

 例えば帰りの電車で、今日は牛丼を食べようと思ったら、たまねぎと牛肉を買って帰るだろう。

 

 これは自炊が嫌だ、自炊が好きだとかそういうことじゃない。

 何に重きを置いて生活を組み立てているか、という問題なのだ。

 自炊するかしないかなんてのはどうでもいい問題なのだ。好きにやればいいのだ。それで優劣が決まるわけじゃない。料理できる人はかっこいいかもしれないけど、美味しいお店をたくさん知ってる人だってかっこいいのだ。問題なのは、自分にとってどっちを選ぶほうが楽なのか、ということなのだ。

 帰りの電車で今日は早く帰って家でゆっくりしたいって思ったら自炊の方がいいだろうし、家にいて牛丼が食べたいってなったら食いに行くのがいい。

 

 ダメ人間には、自炊をしなければならないとか、自炊はだるいとか、どちらかの選択肢しか与えられないような思考回路に落とされる状況こそが一番良くない。

 自炊しろだの、自炊は雑魚だの――どっちの叩かれ方をしても、うるせー、好きな様にやらせろ。ってなるのがダメ人間なのだ。そうなったらもう、好きな様にやるしかないよ。

 

 

 そんなこんなで、だらしがないやつなりに意外と自炊は続いているんだけども、ちょっと節約できたらよく行くカレー屋で高いセット頼んじゃうし、イオンで作り置きできないタイプの食材いっぱい買っちゃうし、すぐに金がなくなって、やっぱり生きているのが一番コスパが悪いと思いました。おわり。

 

 

 

 

性根が腐ってるからカップルアプリを使ってる奴らは本当にアタマが悪いとしか思えない件――自撮りは20年後のキミを殺す

 オタクのみなさんは知らないかも知らないけど、世の中にはカップルアプリというものがある。簡単に説明すると、彼氏と彼女の二人しか見ることの出来ないクローズドなSNSだ。画像や動画などの思い出管理のような使われ方をしていて、ファイルストレージに近いような気がする。

 オタクの皆さんは性根が腐ってるから「そんなのドロップボックスでいいじゃん」「グーグルドライブを使え」「台湾のほうに、ほぼ容量無制限のファイルストレージがあるよ」「USBに保存するのが一番いい」など考えるかもしれないが、これが巷では結構流行っているのである。

 流行っている理由としては、「愛し合ってる二人だけしか見られない秘密」が持つ神秘性が強いだろう。やはり、二人だけの秘密というのは強い。

 この世の中にはたくさんの人間がいるが、このカップルアプリに乗っているたくさんのキラキラした思い出たちを知っているのは、私達ふたりだけ――みたいな風に思っているのかもしれない。

 

 でもぼくはそういった思い出管理っていいよね、みたいなことより、真っ先にこういうことを思ってしまう。

 

 「カップルアプリって絶対女子高生のハメ撮りとかアップされてそうだよな」、って。

 

 ネットにハメを外したカップルのハメ撮りが流出した、という事例はもはや数えきれない。

 スマートフォンが普及した今は、小学生だってハメ撮りが簡単にできる時代だ。特別な機材なんていらない。スマートフォンさえあればいいのだ。

 そして、ハメ撮りに対する、女性側の心理的なハードルも下がっているように思える。セルフィーを代表とするような自撮り文化は、データは一生残るということを彼女たちの頭のなかから消しているような気がする。ぼくだって自撮りするし、ブスだって勇敢に自撮りする時代なのだ。データは一生残るのに。

 読んでいるみなさんには、この言葉の持つ意味をよく考えてもらいたい。

 

 ハメ撮られている間は二人だけの時間がそこに広がっているように思えるが、実際は違う。データとして残ってしまった動画や画像は、間違いなく女性の人生を狂わせる。

 そして、人生を狂わせる歯車を回した責任の一端は、女性側にもあるとぼくは思う。(撮ってデータに残してる奴は論外だ)

 なぜなら、ハメ撮りされている時間は思い出だが、動画はただのデータでしかないからだ。

 撮られる側の女性に、このふたつの区別がついていない限り、これからもハメ撮り流出の被害にあう女性は増え続ける一方だと、ぼくは思う。

 

 もし、ぼくが悪いやつだったとしたら、違法なデータの収集先のひとつとして、間違いなくカップルアプリを狙う。そこには絶対にバカなカップルがアップロードしたハメ撮りやエロ写メがかなりの量あるんじゃないかと思っている。

 こんなものは、クソみたいな願いだってわかっているけど、もう少しみんなが思慮深くなる世の中であってほしいとぼくは思う。何も考えなくてもある程度のことが出来てしまう世の中だから、こういうことが増え続けるのだろうけど。流出してしまったハメ撮り、「可愛くないよ~」とか言ってキメ顔で自撮りしてる女、それらは二十年後のキミまで殺す。

 自分の子供が「それ」を見た時、どんな反応をするだろうか? もう一度言うが、データは永遠に残り続けるのだ。思い出は胸の中にしまうか、自分の手の届く範囲に置いておいたほうがいい。

 

 

 ちなみにもし自分の子供が出来て、ぼくがスク水を着て指を咥えて煽情的なポージングをしている画像を見つけたら、とりあえず殺します。おわり。

女子供に政治とスポーツを語りたがる奴には『バカ』しかいないという事実――ぼくたちは何を語るべきか?

 ぼくが十代で、何の根拠もないのに『なんでもやれる』と思っていた頃、ぼくが尊敬している方がこんな感じのことを言っていた。

 

「スポーツと政治の話を不特定多数に発信するのは、聞いているすべての人に『わたしは低俗だ』って言っているようなものだからやめよう」

 

 ぼくは、確かになあと思ったことを覚えている。

 その頃コンビニでバイトしていたぼくは、夕刊を品出ししている時のことを思い出した。

 夕刊フジ日刊ゲンダイ東スポ

 買っていくのは、たいてい昼間から酩酊状態でワンカップか鬼ころしを買いに来る職業不詳の人たち。

 見出しは『日本崩壊』『金で日本を売る●●党』『本田レアル移籍(東スポは芸能が一面に来ることが圧倒的に多い)』みたいな2chまとめサイトホッテントリみたいな釣りタイトルが『これ先週も見たぞ? ホントに今日の夕刊?』と日付を確認してしまうぐらいヘビーローテーションで使いまわされている。

 それでも売れているということは、『同じようなタイトルが連続して続いていることに何の疑問も保たない層が購読している』ということにほかならないわけだ。

 夕刊を読みながら、『わかば』を吸い、ワンカップをあおり、「俺がこんなになっているのは全部政治のせいだ!」「阿部のバカタレ! 下のバットばっかり振りやがって!」とコンビニの外のベンチで怒鳴ってるのだ。最悪だ。

 THE BLUE HEARTSがはるか昔に、夕刊フジを読みながら老いぼれてくのはごめんだ」って歌った気持ちもわかっちゃうね。こんな大人にはなりたくない。

 

 でも、一番怖いのは、夕刊フジ日刊ゲンダイはおそらく購入する人物像を絞り込んだ上でこういったタイトルをつけているということだ。

 夕刊フジを読んでいる人たちは、夕刊フジみたいな内容の話が好きなのだ。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、これを売る側が正しく認識しているというのは、とても恐ろしい話に感じないかな。ぼくは感じる。

 

 

 

 人は、内容の善し悪しにかかわらず、読むスピードと同じ早さで理解できるものに反応してしまう。

 文章のわかりやすさだけでなく、反応速度には内容のキャッチーさも関わっている。

 つまり、ぼくらは知らず知らずのうちにある人物(もしくは集団)の書いた文章に反応させられている。「ぼく、あるいはあなたなら、こういった文章に反応するだろう」という前提のもと書かれた文章に反応させられているのだ。

 どこかで何かをマーケティングする上では、当たり前の話なのかもしれない。

 今となっては、個人同士のコミュニケーションでもそれを行っている。Twitterトレンドとかはてブをみるとよくわかるよね。

 けど、ぼくは嫌なやつだから、読み手を絞って、自分が狙った反応を得るために、「夕刊フジ」みたいなタイトルや内容の記事を量産している人は、自分のブログの読者やフォロワーをバカだと言ってるのと変わらないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

 

 世の中にはバズるとかいうクソみたいな言葉がある。ある個人がいいと思ったコンテンツを、他の人に拡散し、それが広がっていく。単純に素敵なことだと思う。いいものをみんなで共有しようという精神は、美しいとも思える。

 だけど、バズらせるために記事を書いたりコンテンツを量産したり、バズらせるために拡散するというのは、やっぱりおかしいと思うのだ。

 

 ぼくの中の夕刊フジみたいなコンテンツは、こんな親子が素敵だったみたいなのをマンガで書いちゃうやつ、なんでも二次創作で例えるやつ、一部の集団のなかで使われていた言葉を面白いものを見つけたって感じで不特定多数に発信しようとするやつ、女性やオタクなどの集団の代表として勝手に自分の意見を述べるやつ、性別や立場を過剰にアピールしてくるやつ、他のウェブサービス上で流行っているものを我が物顔で発信するやつ、ぼくが嫌いなやつ。

 ぼくが嫌いなやつは大抵バズっている。

 好きな人もバズってるけど、それは本当にみんなにとって役に立つ内容のものだから。

 あるいはみんなにとって深く考えさせられる有意義なものだから。

 

 自分が語りたいことを語ろう。

 自分がやりたいことをやって、自分が伝えたいことを伝えよう。他の誰かが言っていることだろうがなんだっていいんだ。自分の伝えたいこと、言いたいこと、こんなことを思ったよってことを自分の意思で書き、自分が読んで欲しいと思う人達に、自分の意思で読んでもらうことが重要なんだ。

 そして、読み終わったあとに、面白かったと思ってもらえるものを書いていきたい。そんな簡単にうまくいくものでもないけど、少なくともぼくは、「このつまらない記事はこのブログでしか読めないんだ」ということをわかってもらえるように書いています。

 集団の中での流行やその時間その時間の人々にとってのホットワードに依存して何かを発信するということは、とても危ういことだとぼくは思うので。

 

 ぼくにとって有意義なものが、他人にとっての「夕刊フジ」である可能性も大いにある。それでもブレずに、同じ目線から、文章を発信していきたい。同じ目線だと思っていても、俯瞰してみるとブレブレだったりする。個人というのはそうやって成熟していくんじゃないかなとぼくは思う。ゆるい感じでいきましょう。終わり。

もうだれも、『意味のないもの』なんて見たがらない、ということ。――インターネットウンチのすすめ

 今日二度寝しちゃって、会社を遅刻しました。

 

 ってぼくが言っても、大抵の人が興味が無いと思う。これは本当の話なんだけどね。明日はしないでよって釘を刺されてます。

 

 でも、こんな記事、ぼくを知らない人はファーストビューで離脱するだろうし、ぼくを知っている人も親密度が薄い順に離脱していく。誰もぼくのパーソナリティに興味はない。

 当然だ。

 人は潜在的に、自分にとって有益なものだけを求めている。

 

 オナニーがしたい人にチーズフォンデュの画像を送っても喜ばれないのと同じで、人はひとりひとりそれぞれに求めているものがある。

 だからこそ、有益かどうかは他人が決めることだ。

 要するに、世の中にはチーズフォンデュの画像でオナニーする人だっているかもしれないということだ。

 だけど、自分が発信しているものが有益かどうかを考えることは、発信する前から出来る。

 誰かをシコらせたいと思った時は、銀河で何人いるかもわからないような、チーズフォンデュの画像でオナニーする人種のことを考えるより、この世にいやというほどいる普通のオナ猿野郎のことを考えるべきなのだ。

 それが、何かを欲している誰かにとって、何が有益かを考えるということなんだろうと思う。

 

 それを踏まえて、ぼくは自分自身に問いたい。

 はたして、ぼくが発信しているものは、有益なのだろうか?

 

 

 まず、何のために発信しているのかを考えてみよう。

 例えばぼくは文章を書くのが好きだ。それが140字だろうが10000字だろうが変わらない。頭のなかのごちゃごちゃをうまく整理できる(気分になれる)し、書き終えると、何もしていないのに何かした気分になれる。達成感がある。ゲームでフルコンしたりとか縛りプレイしたりとかね。あんなの何の意味もないよ。バカがやること。自分しか満足してないしね。

 

 発信というコミュニケーションの手段にもそういった一面があるということだ。他人を通して、自分を満足させる。

 本来、こういうことは一人で完結すべきなんだ。

 でもそうじゃない。

 面白いのは、自己満足というのは、他人というフィルターを通して感じるほうが、味わい深いものなのだ。

 自己満足、最高!

 

 ぼくたちは他人というフィルターを通して、自分を満足させる。そうじゃねーよ、一緒にすんなって言う人もいるだろうが、本質は一緒だ。他人を満足させようとしている時点で、自分を満足させることにつながっているのだ。充実度が違うだけでね。

 SNSで何かを発信するということは、地元のコンビニに溜まるDQNや駅前で変なカッコして騒いでるキチガイと変わらない。誰もがどこか満たされていないように感じていて、自分を満たしたいのだ。発信するフィールドや発信している人のステータスが違うだけなんだ。

 

 

 この世には「意味のないものを生み出すことは悪」という前提でなにかを語るキモい人たちがいるが、それはこれから語ることの印象付けに過ぎない。

 

 確かに「もうだれも、『意味のないもの』なんて見たがらない」というのは、多分本当のことだぼくだって、小野ほりでいとか峰なゆかとかその他「ソーシャルに命を捧げてる人たち」のツイートとか見たくないしね。

 自分の見たいもの、見たくないものの選別は昔のインターネットよりもはるかに早いスピードで処理できる。最高の時代だ。ぼくが最高の時代だと感じてるのと同じぐらいのスピードで、他のみんなも見たくないものと見たいものの取捨選択を繰り返しているに過ぎない。

 他人にとって、見たくないものは見られない。

 それだけの話。

 

 

 これらを言い換えるなら、「誰も他人のウンチなんて見たくないから、見ないようにしてる」ってことだ。

 お前はぼくのウンチ見たいのか? 見たくないだろう。

 そういうことなんだよ。

 

 でも。

 じゃあ、ウンチをするのは悪なのかよ? って話になる。

 ウンチは出ちゃうものだから、仕方がない。同じように、満たされたいという欲望も、出てしまうものなのだ。

 

 

 ウンチをまき散らして生きていくのも、たまには悪くないんだ。

 だって、ウンチをするのは気持ちいいからだ。

 意味のないものを発信してしまうということは、気持ちいいのだ。 

 ぼくらは潜在的にインターネットウンチを繰り返しているのだ。

 

 そんな感じで、自分がしていることに迷った時は、「俺は今、インターネットウンチをしている……」と思うと、気が楽になるからオススメだよ。

 誰も自分のことなんて見てるわけないのに、人の目ばかり気になってしまうのは辛いよね。同じように、他人の言ってることも、本当はどうでもいいことのはずなのにね。

 でも、ぼくの好きなアニメのキャラのエロいカッコしてツイートしてる女コスプレイヤーのつぶやきとか見ると、本当に遺伝子を絶やしたくなるレベルでムカつくんだよなあ。器が小さいね。終わりです。

 

 

「七草がゆ」から読み解く、ぼくがインターネットにすら馴染めない理由

 

 1月7日は七草がゆの日で、よくわからないそこらへんに生えてる雑草をおかゆと一緒に煮込んで食べるといいことがあるらしい。七草がゆを食べるということは健康の面から考えても一理あるのだという。

 が、しかしだ。遠い昔、七草がゆを食べるということは、一年の無病息災を祈る一種の占いとして機能していた。見てきたわけじゃないからよくわかんないけどさ、前の日の夜から、歌なんか口ずさみながら、次の日に食べる七草がゆバカ丸出しのウキウキで仕込んでいたらしい。マジで笑えるよね。

 ぼくが昔に生きていたら七草がゆを食ってる奴は全員バカだと思っていただろうし、よくわかんねー雑草なんかより肉が食いたいと訴えただろう。だって、肉のほうがうまいじゃん。

 でも、七草がゆは今となっては失われつつある伝統行事と化してしまってはいるが、かつては公式行事だった。この国のあらゆるところで、七草がゆは食されていたのだ。七草がゆを当たり前のように食べていたかもしれないという可能性を、ぼくは想像すらしたくない。誰にも馴染めない時間を送っている自分を、ぼくだって想像したくないのだ。お前だってどうせ、価値観の合わない人間と会話してる時、苦笑いしてやり過ごしてんだろ?

 

 

 でも流石に、平成にもなると七草がゆを食べてる奴なんて見つけるほうが難しいはずだし、七草がゆを食べる物好きなバカはレッドデータブック載ってるはずなのだ。そんなのお前の周りの話だけだろとか言うかもしれないけど、勘違いしてほしくないのはぼくが見聞き、体感しているものこそがぼくの世界のすべてなのだ。人はだれだって自分が理解できないものに近づきたくない。そして自分が理解できないものを敵視する。

 ぼくにとって七草がゆは理解できない。雑草を食うなんてホームレスでもあんまり居ないと思う。

 でも敵じゃない。どうせ滅びるのだ。

 七草がゆなんて行事はこの世から消えてなくなる。ぼくもいつか死ぬが、同じように七草がゆも死ぬ。ぼくらが知らないだけで、この世にはそうして死んでいった伝統がいくつもある。その一つの仲間入りを果たすだけにすぎないのだ。

 アンドロメダまで日帰りで行けるようになるぐらい遠い未来に、吉村作治みたいな物好きがぼくのブログをインターネット遺跡から見つけて雑草なんて食うバカが居たんだなあ」と感慨深く微笑むに違いない。

 そのときはきっと、七草がゆだって報われるだろう。失われたものが、未来に生きる人を幸せにすることだってあるよ。

 

 

 しかし、誰かに説明して欲しくてしょうがないんだけどさ、見たくないと心から願っているものほど、向こうから自分に近づいてくるんだよなあ。

 Twitterとか見てると、フォローもしてねえし見たくもねえのに知らない女の投稿とか出てきてさ、七草がゆ最高」とか「伝統行事だから大切にしないとね笑」みたいな「あー!これこれ!こういう投稿が目に入ってくるのが嫌で近づかないようにしてたんだよなあー!死ね!って感想しか出てこないバカに話題のアクティビティが通知されるのだ。いわゆる赤紙だ。インターネット戦争に駆り出されるのだ。

 

 ぼくは他人の領域にまで踏み込んでまで、「あなたが自分のヒエラルキーを高めるために用いている「それ」が、ぼくにとってどれだけ不愉快で、ぼくを苦しめていて、ぼくをおかしくさせているか」を語ろうとは思わない。そんなことをする奴は狂人だ。(こんな文章を書いてる時点で結構きてるなあって感じはするし、「自分がいかに不愉快な思いをしているか」を発信するということが2000年代のインターネットって感じで結構心地いいんだけど)

 要するに、疲れているのだ。しかも疲れている時に、嫌いな奴の投稿なんてみたくねーんだよ。

 間違っているのはぼくだし、ぼくのほうが現在のインターネットに馴染めていないのはわかってるよ。それでもぼくはこの世で露出の多いコスプレイヤーとかカラコン付けた女の自撮りとか「オチが予想出来ない映画10」みたいなアフィリエイトへの誘導、ブスをバカにしたりして伸ばすツイート、オモシロイと思って書いてるであろう全然面白くないこと、落書きしてみたとかいって伸びそうな時間帯にしっかり投稿してる絵。とにかく全部見たくないんだ。そんなの投稿してる暇があったら、七草がゆをこき下ろすはてなブログを書け。

 

 ぼくのほうが間違ってるのはわかってるし、これは完全にかつてのインターネットというプラットフォームに依存してきたぼくが招いた結末だ。とにかく反射的に他人がシェアしそうなものを投稿することが自分という人間の価値をあげる最も簡単な方法なのだ。そりゃみんな、やるよね。

 でもやっぱり、ぼくはひとりぼっちになったとしても、そうはなりたくないのだ。みんなに馴染みたいけど、そんな人間にはなりたくない。そんな人間にはなりたくない!

 というわけで、おそらく、ぼくみたいな人間は昔に生きていたら七草がゆを食べなかっただろうし、今のインターネットに馴染めてないんだと思う。馴れ合いは好きだけど、馴れ合いたいわけじゃないんだ。

 

 まあめんどくさい人間って、どこにいてもめんどくさいよね。自分が嫌なやつだということを再認識したところで終わりにします。七草がゆは死ね!