女子供に政治とスポーツを語りたがる奴には『バカ』しかいないという事実――ぼくたちは何を語るべきか?
ぼくが十代で、何の根拠もないのに『なんでもやれる』と思っていた頃、ぼくが尊敬している方がこんな感じのことを言っていた。
「スポーツと政治の話を不特定多数に発信するのは、聞いているすべての人に『わたしは低俗だ』って言っているようなものだからやめよう」
ぼくは、確かになあと思ったことを覚えている。
その頃コンビニでバイトしていたぼくは、夕刊を品出ししている時のことを思い出した。
買っていくのは、たいてい昼間から酩酊状態でワンカップか鬼ころしを買いに来る職業不詳の人たち。
見出しは『日本崩壊』『金で日本を売る●●党』『本田レアル移籍(東スポは芸能が一面に来ることが圧倒的に多い)』みたいな2chまとめサイトのホッテントリみたいな釣りタイトルが『これ先週も見たぞ? ホントに今日の夕刊?』と日付を確認してしまうぐらいヘビーローテーションで使いまわされている。
それでも売れているということは、『同じようなタイトルが連続して続いていることに何の疑問も保たない層が購読している』ということにほかならないわけだ。
夕刊を読みながら、『わかば』を吸い、ワンカップをあおり、「俺がこんなになっているのは全部政治のせいだ!」「阿部のバカタレ! 下のバットばっかり振りやがって!」とコンビニの外のベンチで怒鳴ってるのだ。最悪だ。
THE BLUE HEARTSがはるか昔に、「夕刊フジを読みながら老いぼれてくのはごめんだ」って歌った気持ちもわかっちゃうね。こんな大人にはなりたくない。
でも、一番怖いのは、夕刊フジや日刊ゲンダイはおそらく購入する人物像を絞り込んだ上でこういったタイトルをつけているということだ。
夕刊フジを読んでいる人たちは、夕刊フジみたいな内容の話が好きなのだ。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、これを売る側が正しく認識しているというのは、とても恐ろしい話に感じないかな。ぼくは感じる。
人は、内容の善し悪しにかかわらず、読むスピードと同じ早さで理解できるものに反応してしまう。
文章のわかりやすさだけでなく、反応速度には内容のキャッチーさも関わっている。
つまり、ぼくらは知らず知らずのうちにある人物(もしくは集団)の書いた文章に反応させられている。「ぼく、あるいはあなたなら、こういった文章に反応するだろう」という前提のもと書かれた文章に反応させられているのだ。
どこかで何かをマーケティングする上では、当たり前の話なのかもしれない。
今となっては、個人同士のコミュニケーションでもそれを行っている。Twitterトレンドとかはてブをみるとよくわかるよね。
けど、ぼくは嫌なやつだから、読み手を絞って、自分が狙った反応を得るために、「夕刊フジ」みたいなタイトルや内容の記事を量産している人は、自分のブログの読者やフォロワーをバカだと言ってるのと変わらないんじゃないか、と思ってしまうのだ。
世の中にはバズるとかいうクソみたいな言葉がある。ある個人がいいと思ったコンテンツを、他の人に拡散し、それが広がっていく。単純に素敵なことだと思う。いいものをみんなで共有しようという精神は、美しいとも思える。
だけど、バズらせるために記事を書いたりコンテンツを量産したり、バズらせるために拡散するというのは、やっぱりおかしいと思うのだ。
ぼくの中の夕刊フジみたいなコンテンツは、こんな親子が素敵だったみたいなのをマンガで書いちゃうやつ、なんでも二次創作で例えるやつ、一部の集団のなかで使われていた言葉を面白いものを見つけたって感じで不特定多数に発信しようとするやつ、女性やオタクなどの集団の代表として勝手に自分の意見を述べるやつ、性別や立場を過剰にアピールしてくるやつ、他のウェブサービス上で流行っているものを我が物顔で発信するやつ、ぼくが嫌いなやつ。
ぼくが嫌いなやつは大抵バズっている。
好きな人もバズってるけど、それは本当にみんなにとって役に立つ内容のものだから。
あるいはみんなにとって深く考えさせられる有意義なものだから。
自分が語りたいことを語ろう。
自分がやりたいことをやって、自分が伝えたいことを伝えよう。他の誰かが言っていることだろうがなんだっていいんだ。自分の伝えたいこと、言いたいこと、こんなことを思ったよってことを自分の意思で書き、自分が読んで欲しいと思う人達に、自分の意思で読んでもらうことが重要なんだ。
そして、読み終わったあとに、面白かったと思ってもらえるものを書いていきたい。そんな簡単にうまくいくものでもないけど、少なくともぼくは、「このつまらない記事はこのブログでしか読めないんだ」ということをわかってもらえるように書いています。
集団の中での流行やその時間その時間の人々にとってのホットワードに依存して何かを発信するということは、とても危ういことだとぼくは思うので。
ぼくにとって有意義なものが、他人にとっての「夕刊フジ」である可能性も大いにある。それでもブレずに、同じ目線から、文章を発信していきたい。同じ目線だと思っていても、俯瞰してみるとブレブレだったりする。個人というのはそうやって成熟していくんじゃないかなとぼくは思う。ゆるい感じでいきましょう。終わり。