どうせすぐ飽きるブログ

どうせすぐ飽きます。

お米があっても、たまねぎと牛肉が無ければ、お前は「すき家」に行く――ダメ人間のための自炊を考える

 ぼくはだらしがない。

 一人暮らしの部屋は汚いし、財布の中はレシートだらけ。待ち合わせにはよく遅れてくるし、人に「ちゃんとして!」と怒られる回数も多い。(最近知ったことなのですが、「ちゃんとして」って怒られることってあんまりないらしいですね)

 

 それでも、自炊だけはわりかしちゃんと続いている。駅前のイオンで買い物をして、その日食べたいものを作って食べる。自炊最高とかそういうことがいいたいわけじゃない。最寄り駅はわりかし美味しいお店も多いし、よく外食にも行く。日高屋すき家もしばしば使う。牛丼にとろろをかけて食うのは最高だ。こんな話をしているから、今日の夜もすき家に寄って帰る可能性だってある。

 

 一人暮らしをはじめてから数ヶ月経過して、考えたことがある。

 

 それは自炊について。

 

 この国では、自炊原理主義アンチ自炊派の二つの宗派に分かれて争っている、とぼくは考えている。  

 

 自炊原理主義者はとにかく自炊でなければ気が済まないというように、何でも自炊ですまそうとする。時にはそれ、買って食ったほうが安上がりじゃね?と思うようなものも自炊し、写真をインターネットにアップロードする。

 

 彼らの主張は一貫している。

 

「自炊すれば節約できるし、健康管理もできる」

 

(=だから私達は偉いし、自炊しない奴はクソ)

 

 ある種の強迫観念すら感じるような主張を、彼らは繰り返し唱え続ける。

 まあそれが間違っているか間違っていないか、という話についてはぼくはどうでもいいと思っているんだけど、彼らがアンチ自炊派を見下しているのは、ぼくにもなんとなくわかる。

 

 そして、アンチ自炊派は自分たちが見下されていることに気がついていて、そのイライラのせいで、触るものみんなに牙を剥いている。

 世の中の自炊派には「料理が好きだよ派」や「ガチで貧乏だから激安食材を調理して飢えを凌ぐしかないよ派」などの少数民族もいる。

 だが、自炊原理主義者たちの態度に腸を煮えくり返らせているアンチ自炊派は、この少数民族たちもひとくくりにして批判する。

 

「疲れている時に料理をする奴はバカ」

「ガス代とかも含めて考えたら逆にコスパ悪い」

「多少割高でも好きなモノ食って生きていくほうが心が豊かになる」

 

 など、彼らは、あー確かにぼくもそう思うな、と一理あるなと思わせる強い主張をする。そりゃ、自炊するより、外食したり弁当食って生きてくほうがいいよな、って思えるような。

 だが、彼らのアンチ自炊派の家には調理器具や食材がないというわけでないのだ。

 

 

 

 自炊をする、自炊をしないという二つの選択肢のどちらが正しいか、という問題はさておき、ぼくはこう考えるのが一番コストパフォーマンスがいいんじゃないかな、と思う。

 例えば家にいて、お腹すいた~ってなったぼくが牛丼が食べたいと思ったとして、お米が炊けてても、たまねぎと牛肉が無ければ、ぼくはイオンじゃなくてすき家に行くだろう。

 例えば帰りの電車で、今日は牛丼を食べようと思ったら、たまねぎと牛肉を買って帰るだろう。

 

 これは自炊が嫌だ、自炊が好きだとかそういうことじゃない。

 何に重きを置いて生活を組み立てているか、という問題なのだ。

 自炊するかしないかなんてのはどうでもいい問題なのだ。好きにやればいいのだ。それで優劣が決まるわけじゃない。料理できる人はかっこいいかもしれないけど、美味しいお店をたくさん知ってる人だってかっこいいのだ。問題なのは、自分にとってどっちを選ぶほうが楽なのか、ということなのだ。

 帰りの電車で今日は早く帰って家でゆっくりしたいって思ったら自炊の方がいいだろうし、家にいて牛丼が食べたいってなったら食いに行くのがいい。

 

 ダメ人間には、自炊をしなければならないとか、自炊はだるいとか、どちらかの選択肢しか与えられないような思考回路に落とされる状況こそが一番良くない。

 自炊しろだの、自炊は雑魚だの――どっちの叩かれ方をしても、うるせー、好きな様にやらせろ。ってなるのがダメ人間なのだ。そうなったらもう、好きな様にやるしかないよ。

 

 

 そんなこんなで、だらしがないやつなりに意外と自炊は続いているんだけども、ちょっと節約できたらよく行くカレー屋で高いセット頼んじゃうし、イオンで作り置きできないタイプの食材いっぱい買っちゃうし、すぐに金がなくなって、やっぱり生きているのが一番コスパが悪いと思いました。おわり。