もうだれも、『意味のないもの』なんて見たがらない、ということ。――インターネットウンチのすすめ
今日二度寝しちゃって、会社を遅刻しました。
ってぼくが言っても、大抵の人が興味が無いと思う。これは本当の話なんだけどね。明日はしないでよって釘を刺されてます。
でも、こんな記事、ぼくを知らない人はファーストビューで離脱するだろうし、ぼくを知っている人も親密度が薄い順に離脱していく。誰もぼくのパーソナリティに興味はない。
当然だ。
人は潜在的に、自分にとって有益なものだけを求めている。
オナニーがしたい人にチーズフォンデュの画像を送っても喜ばれないのと同じで、人はひとりひとりそれぞれに求めているものがある。
だからこそ、有益かどうかは他人が決めることだ。
要するに、世の中にはチーズフォンデュの画像でオナニーする人だっているかもしれないということだ。
だけど、自分が発信しているものが有益かどうかを考えることは、発信する前から出来る。
誰かをシコらせたいと思った時は、銀河で何人いるかもわからないような、チーズフォンデュの画像でオナニーする人種のことを考えるより、この世にいやというほどいる普通のオナ猿野郎のことを考えるべきなのだ。
それが、何かを欲している誰かにとって、何が有益かを考えるということなんだろうと思う。
それを踏まえて、ぼくは自分自身に問いたい。
はたして、ぼくが発信しているものは、有益なのだろうか?
まず、何のために発信しているのかを考えてみよう。
例えばぼくは文章を書くのが好きだ。それが140字だろうが10000字だろうが変わらない。頭のなかのごちゃごちゃをうまく整理できる(気分になれる)し、書き終えると、何もしていないのに何かした気分になれる。達成感がある。ゲームでフルコンしたりとか縛りプレイしたりとかね。あんなの何の意味もないよ。バカがやること。自分しか満足してないしね。
発信というコミュニケーションの手段にもそういった一面があるということだ。他人を通して、自分を満足させる。
本来、こういうことは一人で完結すべきなんだ。
でもそうじゃない。
面白いのは、自己満足というのは、他人というフィルターを通して感じるほうが、味わい深いものなのだ。
自己満足、最高!
ぼくたちは他人というフィルターを通して、自分を満足させる。そうじゃねーよ、一緒にすんなって言う人もいるだろうが、本質は一緒だ。他人を満足させようとしている時点で、自分を満足させることにつながっているのだ。充実度が違うだけでね。
SNSで何かを発信するということは、地元のコンビニに溜まるDQNや駅前で変なカッコして騒いでるキチガイと変わらない。誰もがどこか満たされていないように感じていて、自分を満たしたいのだ。発信するフィールドや発信している人のステータスが違うだけなんだ。
この世には「意味のないものを生み出すことは悪」という前提でなにかを語るキモい人たちがいるが、それはこれから語ることの印象付けに過ぎない。
確かに「もうだれも、『意味のないもの』なんて見たがらない」というのは、多分本当のことだ。ぼくだって、小野ほりでいとか峰なゆかとかその他「ソーシャルに命を捧げてる人たち」のツイートとか見たくないしね。
自分の見たいもの、見たくないものの選別は昔のインターネットよりもはるかに早いスピードで処理できる。最高の時代だ。ぼくが最高の時代だと感じてるのと同じぐらいのスピードで、他のみんなも見たくないものと見たいものの取捨選択を繰り返しているに過ぎない。
他人にとって、見たくないものは見られない。
それだけの話。
これらを言い換えるなら、「誰も他人のウンチなんて見たくないから、見ないようにしてる」ってことだ。
お前はぼくのウンチ見たいのか? 見たくないだろう。
そういうことなんだよ。
でも。
じゃあ、ウンチをするのは悪なのかよ? って話になる。
ウンチは出ちゃうものだから、仕方がない。同じように、満たされたいという欲望も、出てしまうものなのだ。
ウンチをまき散らして生きていくのも、たまには悪くないんだ。
だって、ウンチをするのは気持ちいいからだ。
意味のないものを発信してしまうということは、気持ちいいのだ。
ぼくらは潜在的にインターネットウンチを繰り返しているのだ。
そんな感じで、自分がしていることに迷った時は、「俺は今、インターネットウンチをしている……」と思うと、気が楽になるからオススメだよ。
誰も自分のことなんて見てるわけないのに、人の目ばかり気になってしまうのは辛いよね。同じように、他人の言ってることも、本当はどうでもいいことのはずなのにね。
でも、ぼくの好きなアニメのキャラのエロいカッコしてツイートしてる女コスプレイヤーのつぶやきとか見ると、本当に遺伝子を絶やしたくなるレベルでムカつくんだよなあ。器が小さいね。終わりです。